台北天后宮  
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 清領時代-艋舺新興宮 
 
  1736年、台北盆地に入植する漢人が次第に多くなり、艋舺地区で1738年に、三邑(晋江、南安、恵安)の人々が資金を出し、「龍山寺」が建てられ、2年をかけて竣工しました。その後、北に向かって旧街、新店街(今の西園路一段)が発展し、旧街よりも早く発展していた蕃薯市街(後の歓慈市街、今の貴陽街二段)との交差点に、1746年に「新興宮」が建てられました。この地区の市街地の発展は、「新興宮」を中心とし、東と北に向かって伸びました。1788年には、「清水巌祖師廟」が建てられましたが、本宮は1813年に発生した火災で焼失し、再建後に他の2の廟と共に、1825年に「艋舺三大廟門」と呼ばれるようになりました。

  艋舺新興宮は、文献の記載によれば、「天后廟……淡水艋舺の渡しに、乾隆十一年に建てられ」、「天后宮…艋舺街の昔の渡しに、乾隆十一年に建てられ…」とあり、創建年代が1746年であることが分かります。祀られている主神は天上聖母であるため、「天后宮」または「天后廟」と呼ばれています。

  本宮の建設の過程については、様々な説がありますが、その中でも、初期の主事者に伝えられた口述史料には、このような説があります。「200年以上前、貿易船が艋舺にやって来て、船の上の媽祖を陸上に祭りましたが、仕事を終えた後、船主が媽祖を船に迎えて帆をあげて帰路につこうとしたところ、すべてが思うようにいかず、いろいろと推測した結果、媽祖が留まりたがっていることが分かったため、再度神像を岸に上げ、一行はようやく難なく離れることができるようになりました。そのため、艋舺の船業者が、寄付をし、艋舺の新興地区、蕃薯市街の入口に寺と廟を建て、媽祖を祀り、これが『新興宮』の始まりとなりました。」また、地元の老人によれば、台北地区の発展は新荘から起こり、艋舺地区は新興発展地区であったため、廟を「新興宮」と命名したそうです。本宮に祀られている媽祖の起源の説明も様々で、一説には、新荘の「天后宮」から分霊されたという話や、河を漂流してきたという伝説もありますが、真実がいったい何なのかは、今となっては記載がないために、考証することはできません。ただ確かなのは、本宮の信者は、媽祖の霊験のために、香の火が盛んで、参拝者が絶えないということです。

  《重修台湾府志》の「新興宮」建設図によれば、「新興宮」建設規模は非常に大きく、廟の門外には楼台と演戯場があったことが分かります。中央は大殿で、神像が祀られ、その後ろは正屋二進で、諸神が祀られ、廟の右側には屋三進があり、官庁とされ、周囲は塀で囲まれていました。さらに、日本統治時代の台湾に関する調査報告によれば、当時艋舺地区にあった「新興宮」の土地面積は約160坪余りで、廟の建築面積は約127坪で、その他の附属財産部分は約40坪であったことが分かり、清領時代に本宮が相当の規模をもっていたことが見て取れます。

  1813年、本宮に火災が発生して焼失し、1825年に再建され、「龍山寺」、「清水巌祖師廟」と並んで、「艋舺三大廟門」と称されました。その後、日本政府に台湾が割譲され、1937年には、日中戦争が勃発し、台湾の戦略的地位は重要になり、日本は皇民化運動を起し、日本語家庭を設立し、台湾の寺や廟を廃止して、日本の神を祀るようにを要求しました。1943年、日本政府は防空道路を建設する必要があることを理由に、強制的に本宮を取り壊し、当時の信者は、神像や神器を一時的に「龍山寺」後殿に置くしかなかったため、艋舺地区の精神の中核である「新興宮」は、このような要素の下、瓦解し、一時的に過去のものとなりました。
 
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