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日本統治時代-真言宗弘法寺 |
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1895年、清と日本が《下関条約》を結び、台湾と澎湖列島を日本に割譲することが決まった後、日本の台湾に対する統治が始まりました。日本政府は、台湾統治の間、日本の仏教宗派、計8宗14派を導入し、台湾で急速に布教を行い、台湾の日本への同化の第一歩としました。そのうち、真言宗高野派は1896年に台湾に伝わり、日本の真言宗各派の中でも勢力が最も大きい一派で、正式名は「高野山真言宗」といいます。祀っているのは、日本の仏教の発展に極めて貢献が大きく、密教の経典を中国から日本に伝えた重要人物である弘法大師─空海で、その後、中国が密教の禁止を禁止したため、密教は中国では消失しましたが、日本で引き継がれ、日本の文化と仏教界に対し、相当の影響力を与えています。
「高野山真言宗」が台湾に伝えられた当初、1899年に、艋舺の新起街に布教所が設置され、護国十善会組織がされました。会員に毎月、雑誌「真言」が配られ、弘法を助け、社会事業を行うため、寺の境内には、無料宿泊所と寄宿舍が設けられ、生活に苦しむ民衆を収容し、仕事を紹介しました。1910年には、信者の寄付と本山高野山金剛峯寺の資金補助により、台北市西門町に寺院が建てられ、「新高野山弘法寺」の名称で、この宗派の台湾本島での布教の管理も行いました。
「真言宗新高野山弘法寺建立許可」の資料によれば、真言宗「新高野山弘法寺」は、1910年に提出した寺建設許可には、各建物の建設面積と真言宗「新高野山弘法寺」財産目録が着いており、真言宗が1910年に西門町で「新高野山弘法寺」を設け、合法的な使用権を獲得したことの証拠となっています。日本統治時代の統計報告書によれば、真言宗は日本統治時代の台湾での各宗派の中でも信者の人数が最も多い宗派であったことが分かります。真言宗の日本人に対する重要性が見て取れる一方で、この教派が日本が台湾を離れた後に急速に没落したあらましが見て取れます。
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