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「弘法寺」から「台北天后宮」へ |
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第二次大戦後、日本軍は撤退し、台湾の民間信仰が再び勃興を始めたため、本宮の信者は廟の地を再度探し、適切な廟を見つけ、龍山寺後殿に預けられた神像を移転する気持ちを燃え滾らせました。
本宮の信者が神像を西門町の「弘法寺」に移転したあらましには、2つの説があります。一つは、日本の敗戦後、本宮の信者が日本統治時代の「弘法寺」を利用して、その正殿を媽祖の祠祀に改造したというものです。当時の「弘法寺」は、完全に日本風の建築であり、日本の僧侶が読経し仏像を祀るためのものであったため、1950年になって、日本の僧侶が鉢を携え帰国した際に、台北市教育局が接収し、後に本宮の信者の積極的な働きかけにより、「弘法寺」を引き継ぎ、「台湾省天后宮」と改名したというものです。
もう一つの説は、第二次大戦後、1948年に台北市教育局の黄啓瑞局長が、多くの人々が敬虔に信仰する媽祖を祀るために、西寧南路の「法華寺」を新しい転居先として選びましたが、本宮の多くの信者が「法華寺」は西を背に東を向いており、元々の旧媽祖宮が北を背に南を向いていたのと異なるため不適切であると感じたため、成都路西門市場のそばにあった「弘法寺」を新しい転居先とし、1948年旧暦6月1日に廟に入ったというものです。「龍山寺」後殿に保管されていた媽祖は、「龍山寺」後殿から一路盛大に成都路まで遊行し、廟に入りました。このような挙動は、元々「弘法寺」に住んでいた人の抗議に遭ったため、南京の中央政府に告訴し、黄啓瑞が違法に許可したと訴えましたが、最終的には行政訴訟判決により、教育局長黄啓瑞の勝訴が裁定され、騒ぎは収まりました。この時、内部の空間配置は元「弘法寺」と同じとし、正殿を媽祖の祠祀として改造しただけであったため、日本的な風格の建築となっていました。移転時には、本宮が艋舺にあった時に、本来「新興宮」という名であったため、「新興宮」という名になりました。1952年8月、本宮は木片を投げる方法で媽祖の同意を得て、台湾省の名を冠し、廟名「新興宮」を「台湾省天后宮」に改めました。
1953年末には、廟の後ろの国際ダンスホールで火災が発生して、本宮に延焼し、当時本宮は日本の「弘法寺」の木造建築を引き継いでいたため、大火が発生すると収拾がつかきませんでしたが、幸いにも神明は霊力があり、損傷を受けませんでした。しかし、当時、廟は経費が足りなかったため、すぐに再建することはできず、臨時に木の板で簡素な廟を建てるしかありませんでした。1959年になって、媽祖生誕1000年記念に合わせ、信者の寄付によって、正殿が再建され、次々に玉皇殿、鐘鼓楼などの建築が建てられ、ついに今の風貌となりました。1967年、本宮は台北市の改制により行政院直轄市となり、正式名を「台北天后宮」と改めました。
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