台北天后宮  
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 淡水河流域と媽祖との因縁 
 
  清の時代の淡水河と沿岸の市街地の発展の関係は密切で、台北盆地の開拓の歴史は、河口の町である八里坌、淡水から、次第に新荘、艋舺(万華)、松山(当時は錫口と呼ばれていました)、大稲埕、士林、南港などの、比較的内陸に位置する沿岸の町へと開拓が進んでいきました。先人たちが海を渡って台湾に来た時、環境に対する不安と生活しにくさへの恐れから、多くが故郷で信仰していた神像や香の火を携えてやって来て平安を祈りました。台湾に来てからは、神の庇護に感謝して信奉を続け、信者の人数が次々に増加するのに伴い、寺や廟を建てて、地元で祀り始めました。清領時代には、船が人々の生活にとって非常に重要であったので、埠頭のそばには常に市が立って賑わい、寺や廟もそれに伴って川の港のそばに建設されました。中でも、民間信仰では、多くが媽祖を航行の守護者として敬ったため,各地の港に多くの媽祖廟が建てられました。廟は川の対岸の山を向いていますが、一つには風水との関係であり、もう一つには航行者の安全を守るという意味があります。

  史志の記載によれば、台湾北部の淡水河流域の開発当初の媽祖廟の創建の年代は、確かに地方の開発の順序と関連があります。清の康熙年間に、淡水の干豆門に、初めて天妃廟(現在は財団法人「台北市関渡宮」)が登場し、清の雍正年間には、新荘にも天后廟(現在の新荘「慈祐宮」)の記載が見られます。清の乾隆年間には、艋舺(「台北天后宮」の前身「新興宮」)、錫口(現在の松山「慈祐宮」)、八里坌(清の嘉慶元年、淡水河の氾濫により、八里坌の城壁、通り、廟が流されたため消失)などにそれぞれ天后宮が建てられ、清の嘉慶、同治年間には、芝蘭街(現在の士林「慈諴宮」)と大稲埕(後に比較的内陸に移転し大稲埕「慈聖宮」となりました)にも次々と天后宮が建てられました。清の光緒年間には、官府が媽祖の霊験にさらに感謝し、本宮の建設から142年後、台北府治後街に台北府天后宮が建てられました(台北府天后宮は、元々、二二八公園の国立台湾博物館の後方にあり、金の本体に金が施された彫塑の官祀金面媽祖が祀られていましたが、1913年、児玉後藤紀念館建設のため取り壊されました。大媽は、台湾民主国の総統、唐景崧が中国本土に持ち帰り、二媽は三芝郷に迎えられ北海岸で祀られているそうです。)2004年、台北市は、台北市建城120周年のため、「媽祖を台北城に迎える」イベントを行いましたが、信仰文化の力量は今でも軽視できないことが見て取れます。
 
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